ケアを受けるということ
くれたけ心理相談室 名古屋南支部の横地里奈と申します。
〈はじめに〉
今年は傾聴を学び直し、より理解を深めるというテーマを自分の中で掲げゆっくりではありますが学んでいます。
学びを進めて行くうちに、多くの心理学者や心理士が「ケアをする側も受ける必要があり、ケアは日々人から人へと巡っていくものだ」と主張しています。
専門家としてスーパービジョンを受けるのも1つですが、心理職に就かない人を含めた私たち全ての人が日々受けるケアや支援は多岐に渡ります。例えば病院等の専門的なケアをはじめとして、介護サービスや保育園や幼稚園等の福祉もケアに入りますし、日常的な所で言うと美容院、ネイル、エステ、整体やマッサージなどのサービスも立派なケアです。政府が推進しているセルフメディケーションも予防や早期対応というセルフケアです。家庭内で行われる介護や育児もケアです。生活の中で様々なケアや支援を受けながら自分を保っています。
セラピストで居続けるには
大学で心理を学んでいた頃、教授がことあるごとに「セラピストは常にセラピストでいてはいけないし、セラピストで在り続けることでセラピストでは居られなくなる」と強調していました。
スーパービジョンを受けること以外にも、仕事とは関係のない話をする聞いてもらうという、軽い冗談から深刻な相談を他者と常にやり取りする事が、セラピストとして存在し続けるのに重要だと話していました。
同様の事を東畑(2022)では、「心理士もまたプライベートでは専門家の帽子を脱ぎ、自分の人生をきちんと生きるのが大切だ」(p156)と綴っています。
ケアを受ける必要性
では何故、ケアをする側が意識的にケアを受ける必要があるのでしょうか。
カウンセリングをしていくうちにクライエント様の話がカウンセラーの過去の傷に触れることがあります。この過去の傷の回復状態によって、傾聴の深さや共感的理解の度合いが大きく変わってしまいます。傷がケアされていないとクライエント様の話を聴けなくなってしまいます。
またカウンセラー自身がケアして貰った経験が大切でもあります。大学院などのカリキュラムにカウンセリングを受けるという単位があると聞きます。自己分析の一環としてではありますが、心の物語を語ることで癒される経験は実際に受けてみないと分からないということです。
誰かに悩みを話し丁寧に聞いてもらう事で感じる安心感や、逆に話してもイマイチ伝わらない歯がゆさなどを知っておくと、カウンセラーとして傾聴をしたときに共感的理解がより深まるのだと思います。また個人として他力本願ではない、世間や他者に対する安心感をベースに持つこともできるかと思います。この安心感を持つ・持たないで人としてのどっしり感が変わって来る気がします。人の器とも言えるものかも知れません。
循環するケア
東畑(2022)では「自分がちゃんと聞いて貰えているときにのみ、僕らは人の話を聞くことができます。聞いて貰わずに聞くことはできない」(p238)として「聞く」と「聞いてもらう」は社会の中でぐるぐる回っているといいます。東畑氏は「聞く」「聞いてもらう」と表現していますが「ケア」や「支援」も同じだと思います。ただ「ケア」や「支援」は話を「聞く」「聞いてもらう」以外の行為も含まれるので著書内では「聞く」と主に表現していますが、ケアや支援も社会の中をぐるぐる回っているといいます。
更に東畑氏は多くの著書の中で、ケアは見えずらく、ケアが行われなくなった時に初めてケアの実態を知るとしています。日頃からケアしてもらう(家庭内などで)ことを感謝するのは、その空間に不穏な事(機能不全)が起きている証拠だともしています。
著書の中ではウィニコットの「対象としての母親」と「環境としての母親」の例を挙げています。「対象としての母親」とは各々が思い浮かべる個人の母親で「環境としての母親」は家事や育児をする見えにくい部分の母親と説明しています。「環境としての母親」が失敗をすることで初めてケアがされていない事に気が付きます。例えば部屋がきれいに掃除されているとか洗濯物が畳んでタンスに入っている等です。
エドガー(2009)ではそれらを含めた支援を「非公式の支援」と表現し「非公式の支援は当然のものとみなされることが非常に多い」(p40)としています。
何となくピンと来ていない場合は、社会で例えると分かりやすいと思います。社会での「環境としての母親」は電気ガス水道等のライフラインなどです。私たちの生活の中で諸々が供給されていることは当然であり、供給が止まった時に不具合が起きて各企業が謝罪をして復旧を急ぎます。蛇口から水が出る度に水道関係者の皆さんありがとうと感謝する人は少ないと思います。私たちの見えないところで各企業の技術者の方が水道管を変えたり電圧を調査したり水質調査などのケアを欠かさずしていてくれるから安心して生活ができます。
エドガー(2009)では支援は社会的通貨として「社会の一員の間でやり取りされるうちで、もっとも重要なものの一つだ」(p40)と挙げています。
孤独になるとケアされにくくなる
また東畑(2022)では「屈強に置かれ孤独になり心が絶望に覆われた時に「聞くことのちから」は忘却される。いや、結局のところ、その力を見失うことを「孤独」と呼ぶのだと思います」(p244)とあります。
一方的にケアをする側であったり、話を聞く側に回り続けることも、聞いて貰えない時と同様に孤独になります。想像しやすい例としては、介護や育児などケア側に回り続けることで心身ともに疲れ、ケアをされるというステージに立つ機会を失ってしまう等です。
昨今話題になっているヤングケアラーをはじめとするケアをする若年層の当事者の方々もそうです。自身が家族のケアをするのが当然で、他の誰も担ってくれないからしていたことであり、困窮した際にも誰かに相談する事だと考えもしなかったと話す子が多いそうです。結果として介護等に掛かりっきりになり不登校になり、周囲の環境から孤立してしまい、誰にも気が付かれず社会支援の輪から零れ落ちてしまっているのが現状です。
困難な状況にある時、助けてと言えない、誰に助けを求めればいいのか分からない、又は助けを求めても気が付かれないのは、社会全体が自己責任を強調しすぎていて手を伸ばすことを躊躇してしまうことが多いからでもあると思います。言い換えると東畑氏の提唱通り多くの人が「聞いてもらえない」状況にあり「聞く」段階に居ないのかも知れません。心に余裕のない時に人の話は聞きにくく、相手の話から背景を想像しにくいものです。
自分のケアは自分でするという方法も在りますが、話を「聞いてもらう」という観点では対話や会話にはなりにくく、堂々巡りか独り言になってしまいます。言葉というボールを投げキャッチされてボールが投げ帰ってきて初めて対話、会話として成り立ちます。
時々、美容院へ行って「かゆい所はありませんか?」「お湯の温度はいかがですか?」等と丁寧に洗ってもらい、誰かから大切にしてもらう感覚は自分1人では再現できないし味わえないと思います。髪を洗うという行為は自分でも行えます。しかし自分の中でのみケアを回すのではなく、他者にしてもらう心地良さというのも必要です。
ついつい仕事柄ケアをすることに目を向けてしまいがちですが、ケアや支援を受ける側として学べることは多くあるのだと思います。
<最後に>
私たちカウンセラーはもっとケアを受けていいと思うし、ケアをし合える人間関係を多く持っていた方がより豊かにカウンセラーとして仕事ができると思います。自身がどんなケアを受けどう感じたか等をカウンセラーとしてもっと積極的に発信していってもいいかも知れません。
より傾聴を深めるため自分の中の傷付きに気付き、ケアを受けつつ、世間知、専門知を深めて安心感を広げていき、クライエント様と向き合いカウンセラーとしてより成長していきたいと感じています。
引用文献
東畑開人(2022).「聞く」技術「聞いてもらう」技術 ちくま新書
エドガー・H・シャイン(2009).人を助けるとはどういうことかーー本当の「協力関係」を作る7つの原則 英治出版
参考文献
池内紀(2013).カント先生の散歩 潮出版社
東畑開人(2015).野の医者は笑う 心の治療とは何か? 誠信書房
東畑開人(2019).居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書(シリーズケアをひらく)医学書院
東畑開人(2022).なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない 新潮社
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
くれたけ心理相談室 名古屋南支部 横地 里奈
横地 里奈 公式サイト