アルコール依存症と向き合った父と統合失調症の母と家族の思い ~家族療法・集団カウンセリングを経験して~

くれたけ心理相談室 知多支部・半田支部・名古屋本部 田中絵里と申します。

<はじめに>

私が家族として経験したことを共有させて頂けたらと思い書きました。
家族構成は、父と母、3つ違いの姉とわたしです。両親は他界しております。
私の父は長年アルコール依存症に悩まされ、何度も精神科の閉鎖病棟へ入退院を繰り返していました。
そして、その父へ寄り添った母は、統合失調症を抱えており、必然的に娘である姉と私が対応をしていくことを使命として頂いた経験の一部です。
家族視点の思いとして初めて書いてみましたので、読みづらい点が発生していることがあると思いますが、ご興味のある方に読んでいただけたらと思います。

アルコール依存症の父と統合失調症の母との幼少期

私は、両親に怒られた経験はなく、自由に育ててもらったことに感謝しています。
両親共に精神科へ通院や入院をする期間も長く、家族としてどのように関わりを持ち、理解していく事が重要であるのかを知ることができました。

(父の性格)
父は、とても心が優しい人で、人に対して気を遣うことが多かったように思います。職場のストレスや女系家族の中での孤独感が存在していたようです。その結果、お酒という日常の楽しみから依存に進行していってしまったのかもしれません。

(母の性格)
母は、とても明るく社交的でした。どこの子も、自分の子供と同じように接する事を大切にしていた人でしたので、私が学校から帰宅すると、近所の子供数名が、食事をしていたり、泊りに来ていたりと人の集まりを楽しむ傾向が高かったのです。
視力は障害認定を受ける程の、支障があり自宅で内職をしていました。
車に乗れないため、一緒に歩いてスーパーへ行っていましたが、会話の何か逆鱗に触れると、買い物カートを投げ倒し、素知らぬ顔してスーパーから出て行こうとする行動がよくありました。
子供の時は、怒られた、怒っていると感じていましたが、大人になり、病気が関係していたことが理解できました。
母も、父と同様に心に苦痛を感じながら長年寄り添ったことで、統合失調症を発症してしまったのでしょうか。

幼少期の生活

物心ついた時期、自宅には、いつも日本酒とウイスキーの瓶があり、毎日仕事終わりにお酒を飲んでいる姿が見られました。その瓶には、1日ごとに、飲んだ量が分かるように、マジックペンで日付とライン線が引かれるのでした。子供ながらに、瓶の日付とライン線が違っていると「また、隠れて飲んだんだ」と認識していました。
瓶だと、飲み干してしまう為、姉と私で交代しながら、毎日飲む量だけの日本酒ワンカップを3~5本買いに行っていました。昔は子供も買えたのですよね。
毎日、適量を飲んで就寝につくことも多かったのですが、父の休日が続くと飲酒の量が増えて、夫婦ケンカなどの原因になっていました。
GWやお盆、年末年始は子供にとって楽しい期間なはずですが、私たち家族は、また連続飲酒が始まるんだなと外出することを計画することが多かったのです。
連続飲酒とは、食事も水も口にすることなく、ただお酒を24時間以上飲み続ける行為、怒鳴り声をあげるなどが続きました。
小学生や中学生にもなり、平日に父の連続飲酒が始まると、母と姉とランドセルや学生かばんを持ち、親戚の家へ逃げ込み、そこから学校へ通っていたこともありました。

高校生となり

そんな生活をしていると、夫婦の会話や親子の会話、家族の会話も少なくなるのは当然だったのです。父は、話しやすい私を思いやる様子、母は、一緒にいつも居てくれる姉を選んでいたように感じていました。
高校生ともなると、家庭の雰囲気が悪いと外出や外泊ができるようになりますから、私は母から「鉄砲玉のように出かけたらいつ戻るかわからない」と言われていました。
後に、姉は母と一緒にいなければいけないと思い、精神的に負担だったことを聞きました。
これまでの話をまとめると劣悪な環境で生活していたのか?と思われがちですが、お酒を飲んでいないときは、穏やかな家庭の雰囲気で過ごしていたのです。
誕生日には、お寿司屋さんへ行き、夏には海へ連れて行ってくれる両親でした。

父が精神科への入退院を繰り返す日々

5年に一度ほど、飲酒のコントロールができなくなることと、本人の「お酒をやめたい」という希望で精神科へ入院していました。期間は1か月程度だった気がします。
何もない部屋に、鍵を閉められていました。病院へ置いていく家族からしたら、胸が張り裂けそうな思いです。
閉められた部屋の窓から、帰りをみつめる眼差しを背に逃げるように病院を出て行く辛さはなんとも表現しずらいものです。
ただ、この入退院を繰り返していた病院では、家族療法は実施されず、本人が自身と向き合う療法と薬物療法に取り組んでいたようです。
退院の日になると、家族は迎えに行かず、一人で退院手続きを取り、帰りの交通費で飲酒をしてしまうことがほとんどでした。
1か月も入院をして、仕事も有休を活用していたのでしょうか。収入の事など、子供時代には気にも留めなかったところです。そんなことを数年、繰り返しながら私は大人になり、ご縁に恵まれ結婚することになりました。その時期から、父の変化が表れ始めたのです。

アルコール依存の専門病院へ最後の望みを託し受診と入院

私自身の結婚と出産を踏まえ、父のアルコール依存を断ち切りたいと思う気持ちが強くなり、どこか専門に受診したいということになり、探し専門病院へ行きました。

入院ルールとして、毎週金曜日午後からの3,4時間アルコール依存で苦しむ人自身の集団療法と家族療法、家族の参加が入院の必須条件でした。
私は、小さな子供を連れ、母と姉とともに家族療法を受け始めていきました。

まずは、本人たちの飲酒に対する気持ち、連続飲酒をしている時の気持ち、辛い思いを広い講堂でマイクを使い話をする。それを家族はしっかりを受け止める事から始まりました。
本人たちの話が終わると、次は家族の思いを話す順番でした。
連続飲酒が始まった時の、家族の気持ちを本人に聞いてもらうのです。
毎週金曜日の午後3~4時間の家族参加を半年ほど受けていました。

会では父と同様、アルコール依存に苦しむ方の、これまでの飲酒生活、家族の思いを知り、自分たちだけが苦しんでいたのではなかったと初めて知りました。
涙を流しながら、お互いの認識を深めるという機会を持つことができていたのです。
思い出したくもない記憶を、話すことがとても苦痛でした。

病院では、父は早朝起床に始まり、ラジオ体操、家族への手紙、自分の日記と向き合う時間が多い取り組みをしていました。
わたしたち家族は本人のお酒におぼれてしまった孤独感や辞めたいのにやめられないという、辛い思いをしていることに気付かされました。
依存とは、自分だけではどうしようもないものなのだと実感したのです。
家族の理解や寄り添い、同じ悩みを抱えた方とのピア・カウンセリングやサポート、自助がとても重要な心の支えになっている、未来へも繋がるのだと理解することができました。

半年ほどの入院でしょうか、私宛に手紙がよく届きました。
入院直後は、アルコール離脱から見られる、幻聴や幻覚、物忘れのような事も多く、脳が萎縮していることを主治医から聞いていました。
娘への手紙の宛名も、名前を間違えていたり、文章が分からない書き方であったり様々な手紙を送ってきてくれました。
数か月経つと、父の退院したいという気持ちも高まり、安定している事もあり、地域で行っている断酒会へ参加しながら薬物療法で経過を見ていく事になりました。

父の断酒生活

退院後は、素のままの父で過ごすことができるようになり、家族の関わり方が180℃変わりました。
以前は、父と食事のおかずを共有しない、父が口を付けたものは食べない、話をする機会が少ない、一人父は自分の部屋で過ごすことが多かったのですが、退院後はリビングで過ごすことが多くなり、家族との会話も増えました。
その中でも、孫が生まれてきてくれたことは、最も大きなきっかけとなってくれたのかもしれません。
もともと、両親は子供が好きでしたので、孫となると可愛くて仕方ないようでした。
父自身が、「おじいちゃん」という役割をしっかりと持ちたいという気持ちが大きく関わっていたのでようか。
お酒の話はタブー、避けて生活することに慣れ、姉の結婚式ではお酒を来客者へ提供するかどうかも話し合いになったほどです。
結果、提供をしましたが、父は全く動じず、飲みたいという言葉は発しなかったのです。
飲みたいと思う気持ちよりも、心の支えが充実していたことや飲酒の怖さがあったのでしょうか。
お酒は、心も身体も、家族も友人もお金も、そして自分自身も崩壊させてしまうことがあります。
気付いていても、どうにもできないというのが実情なのです。

その後の生活も、穏やかなおじいちゃんとして家族と共に過ごし、ようやく気持ちの疎通ができ支え合える家族の姿に近づいたように感じました。
父は、穏やかで料理もできて、家事もできて、率先してよく動く、いわば「こなせる夫、頼れる父、頼れるおじいちゃん」がもともとの姿だったようです。
役割を明確化したことにより、充実感や満足感、幸福感に満たされていたのかもしれません。

そして、父の良い変化に伴い、母は安堵したかのように統合失調症が悪化していきました。統合失調症と診断されるまでには、とても長い年月がかかり家族も疲弊してしまうほどだったのです。

父の断酒から母の統合失調症との長い道のり

父と母、両親のおかげで精神科へ足を運ぶことが自然と多くなり、病院内では様々な症状の方と出会いました。面会ももちろん、他の方がいらっしゃいましたから初めて見る光景が多かったです。

私が福祉や介護の世界に入り、仕事を始めたのもこの時期くらいからです。
誰かを助けたい、とか支えたいと思う気持ちよりも、誰かの力になっていける喜びや充実感が、私を支えてくれていることだったのです。自分にとっての居場所だったのです。
業界に入り、経験や資格を取得しながら、母のサポートや行政のサービス、介護のサービス、手続き、金銭管理を当たり前のように一人でこなしていました。
通常の職種では、分からないことが、分かる為、調整も手続きも負担ではありませんでした。

ある時、介護認定を受けサービスを開始する状態となり、調整に入りました。
そもそも、母は当時体力もあり、精神疾患があり日常生活が難しい状況になっていましたので、コントロールするには薬物に頼ることも多かったのです。薬の副作用で、傾眠状態が続くこともあり、排泄も介助が必要になっていました。
介護サービスでは、不安定な状態が原因で対応ができなくなり、状態の安定の為、受診していた精神科へ入院することになりました。
そこでは、母は、何故入院させられるのか理解できず、私に対して暴言を吐いたり、暴力をふるうこともありました。被害妄想も大得意でしたので、大変でした。
父も、精神的に負担となっていたので、面会はわたしが仕事を終えた夜に、一人向かっていたのです。

お寿司や好きな食べ物を持って、面会に行くとご機嫌です。
ただ、帰るまえになると、「飛び降りて死んでやる」と動き出し、おさえるのが大変でした。
逃げるように背を向けるわたしに、物を投げ、スリッパも投げ、頭にスコンと当たるのです。命中です。どこにそんな集中力とパワーが備わっているのか不思議です。

ようやく、病院をでるとほっと一安心でした。
帰り道、仕事の疲れと子供のご飯を考え運転しながら、福祉や介護の業界に身を置きながら、両親へこのような対応しかできない自分に対して、情けなくて、毎度、面会の帰りは泣きながら運転していた記憶がよみがえります。
そんな状況で、父は自宅で生活、母は精神科へ入院という生活をしていました。

両親にとって、夫婦が離れて暮らすことがとても不安で寂しかったようでした。
生活が続く中、父からの寂しい等、お酒を飲みたくなるなど日中に電話が入ることが多くなりました。

そして、母の入院先から緊急搬送の連絡が入り、部分義歯を飲み込み、窒息状態とのことでした。
救急搬送依頼し、病院へ着いた後、面会した状態は気管切開した人工呼吸器に繋がれている母の姿でした。窒息の緊急性高く、義歯が取り除けない場所で、気管切開して取り除く処置が行われたのです。

両親二人で一緒に過ごしたいという希望を大切にしたいという気持ちで環境を変えた

母の人工呼吸器は一時的でしたので、回復に向かう間にはずされていきました。
ただ、気管に穴があいていますから、話す時はガーゼでおさえないと声が出ません。その状況を、母は笑いながら「スースするよ」と笑っていました。
母の状況を知らせたのち、父は孤独に耐えれずに、お酒を飲んでしまったのです。

連絡が入ったのは、救急隊からでした。
救急搬送します、近所の方から見かけないので訪問したら、自宅内で倒れていたとのことでした。
一旦、父の自宅へ向かい、入院に必要な準備と保険証などを取りに行きました。
これまでの経験上、動きは速くなるものです。

自宅に入ると、お酒の空き瓶と、インスタントの食事が散乱しており、尿臭で劣悪な部屋になっていました。
父の付けていた時計は、父が倒れお酒に濡れて、止まってしまった時刻になっていました。
何度も、寂しいと連絡があった時に、出来ることはなかったのか、本人よりも、私はまた自分を責めました。

病院へ着くと、父へ、「寂しかったんだね、またやっちゃったね、ごめんね」と声を掛けていました。外傷もひどく、脳内出血を起こしており、日に日に会話ができなくなりました。
食事もできなくなり、延命を余儀なくされた時、命について父とゆっくり話しました。
父は、頑張って生きていきたいという意思表示をしてくれたので、延命である胃ろうと人工呼吸器の選択をしました。

このような医療依存度が高い状態の両親では、病院以外に施設を探すことは大変でした。
ですが、私の本領発揮する時でした。専門職のルートを駆使し、二人を同じ施設で看ていただけることになり、二人とも移送となりました。

新しく始まった環境の施設では、代表の方、施設の方、とても近い距離で接してくれていました。接遇もありますが、両親たっての希望もあり名前で呼んでくれていたのです。
この二人は、同じ部屋で2年ほど、介護をしてもらいながら新しいファミリーのような方たちと、共に楽しい時間を過ごすことができていたのです。同業者である、わたしは感謝しかありません。
Xmasには、お酒を口に含み、天気の良い日はお散歩へ連れ出してくれる、医療依存度が高い方には、ほぼ体験できないような日常を提供してくれていました。

両親二人の幸せそうな表情が、今のわたしを支えてくれています。よくやった、悔いはないと。
そして、苦悩しながら人生を全うするという姿を見せてくれた両親は、私の誇りです。

両親の最期

新しい施設での生活から2年、10年前の年末に父は母との最期の「おやすみ」のサインとともにこの世を去りました。
人生の中で、アルコール依存という病に悩まされ、向かい合いながらも懸命に生きぬいた姿でした。

取り残された母は、混乱し、父と一緒に生活した空間では思い出してしまうため、施設職員さんとわたしと相談しながら、落ち着きを取り戻す対応策を検討したことを思い出します。

母の口癖は「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも」でした。そして、もうひとつ「彰広(父)のところへいきたい」でした。統合失調症は、認知症ではない為、時々不明瞭な会話もありますが、通常の状態が多いこともあり「私は、病気なの?」「死ぬの?」など聞いていました。

母は、令和元年、乳がんを患い、これまでの母の希望を踏まえ延命をせず心臓の拍動の最期まで、わたし、孫、家族と一緒に話掛け、見送ることができました。
寂しがり屋の両親へ天国への贈り物は、沢山のぬいぐるみと若かりし日の、父と母の二人の写真、家族の写真を準備しました。

2人は、人生を懸命に苦悩しながらも生きぬくというメッセージを残してくれたように感じています。
わたしが、両親を見送る際に悔いが残らないよう、対応や判断を任せてくれた姉に感謝しています。
辛い思いをしたことも、財産です。

<おわりに>

1人という孤独感が心をむしばみ、身体を壊していきます。
深い関係でなくても、どのような関係でも、一人じゃないと思うこと、誰かと共有することで、強くなれることもあると考えています。
そして、福祉介護に携わってきた経緯とカウンセラーとして活動をしている根本は、両親からの贈り物だったのかもしれないと思う時もあります。

とても長くなり、気持ちのいきさつなども行ったり来たりしている文面ですが、アルコール依存や様々な依存症に悩み苦しんでいるご本人様、ご家族様のお気持ちの理解に繋がることを願っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

田中 絵里カウンセラー 名古屋本部・知多支部・半田支部

くれたけ心理相談室 知多支部・半田支部・名古屋本部 田中絵里
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